暗礁に乗り上げた1930年代
1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに「狂喜の時代」は終わりを告げ、米国はかつてない大不況に見舞われます。それによって、程度の差はあれ、西欧諸国全体が影響を被りました。しかし、ロンジンの工場では、1921年の経済危機の時ほど憂慮すべき状況にあるとは認識されておらず、経営陣らは不況への対応も怠りないと感じていました。とは言え、経済危機は各地に広がりを見せ、米国議会の可決した高い関税によって保護された米国産の時計と新たな競争を強いられたスイス時計業界にも、それは容赦なく襲い掛かりました。他方、エボーシュや組み立て前の各種パーツを外国に輸出する「シャブロナージュ」と呼ばれる慣行がさらに活発になり、スイス時計産業全体が置かれていた危機的状況を悪化させました。実際、こうした打撃はロンジンにとっても厳しいものでした。設立以来始めて、ロンジン社の収支は大幅な赤字で、労働時間短縮、配当金の支払い延期、工場付属の工房の閉鎖、天文台コンクールの延期といった事態を余儀なくされたのです。
1930年代の大不況による打撃はさらに、製造工程の再編成、製造段階でのキャリバーの純化、小さなバゲット・キャリバーなど新しいムーブメントの製造といった結果ももたらしました。アルフレッド・フィスターの指揮で、ロンジンは製造方法を時代に適応させ、自社ムーブメントのコスト改善を試みます。経済危機はロンジンにとって会社再編のきっかけともなったのでした。1936年、米国市場が再び門戸を開いたのと時期を同じくして時計業界も回復を見せ始めます。ロンジンはアメリカにロンジン-ウィットナー・ウォッチ社という代理店を置き、そこを通じて新たに注文を獲得し始めます。世界的な経済不況によって6年間の厳しい時期を送った後、ロンジンは1936年に収支をわずかながら黒字に転じたのでした。