20世紀半ば:計時とクロノメーター


一般的に、平和な時代はスイスの時計産業に発展をもたらすようです。戦後、時計の販売量は急増しましたが、忘れてはならないのは、戦時中、外国の競合企業が様々な制約によって活気を失っていた間に、スイスの時計産業は強固な地位を確立したことです。世界各地で時計の需要が増え、時計メーカーは生産機器を駆使し、工場は拡張されました。この時期ロンジンでは、大規模な変革の一環として、多くの建物が建設されました。

ロンジンは、時計製造技術の改善に努めるだけではなく、既に数年前から成功を収めていた部門を更に新しく展開していきました。そして腕時計の精度に関して、ヌーシャテル天文台のクロノメーターコンクールに参加し優れた成績を収めました。戦時中ロンジンはクロノメーターコンクールに参加しませんでしたが、これらのコンクールは戦後、多くの時計ブランドが競争を繰り広げる中で、大きく発展したのです。クロノメーターコンクールによって時計の品質が保証されるわけですが、それとは関係なく、正確な計時装置の使用こそが、多くの分野における基本的なニーズとなっていました。

1950年代からは、既にロンジンが高い評価を得ていたスポーツ競技での計時が、ブランド事業にとって重要な部分を占めるようになりました。ロンジンは、1878年以来自社で開発した計時装置によって、多くの国際スポーツイベントに参加しました。

ロンジンの工場では、20世紀前半に生産方法の合理化と改善を実施することによって優れた生産性が確立され、1950年代から1970年代にかけてほぼ同レベルの生産性が維持されました。ロンジンは、クロノメーターを通して、世界各地の未開拓の地を探検するパイオニアたちの旅に参加しています。このような過酷な土地に踏み込む探検のひとつとして、1947年から1976年にかけて科学者兼民族学者のポール=エミール・ビクトールが指揮したフランスの極地探検が挙げられます。これらの探検では、過酷な旅に必要な完全装備の中にロンジンのクロノメーターが加えられました。厳しい環境での長期にわたる遠征において、信頼性の高いクロノメーターが、主に探検隊の位置を正確に知るための重要な機器として役立ったのです。ロンジン製の優れた機器は、気温の大きな変動にさらされながらも、このフランスの探検隊の地質学者、物理学者、地球物理学者、氷河学者、測地学者、機械技術者による極地探検に大いに貢献しました。厳しい環境下での探検にとって重要な条件として、ムーブメント自体の特性、つまり時計が正確に作動するための構造や技術的要素に加えて、防水性が挙げられます。防水ケースによってこそ、ムーブメントが保護され、時計の規則正しい動作が実現されるのです。

ロンジンは、極地探検の他、1955年~1956年にグルジアで行われた英国の測量調査などにも参加し、さらに深海の世界にも取り組むようになりました。オーギュスト・ピカール教授が実施した海洋探検に、計時装置を通じて参加したのです。スイスの物理学者であったピカール氏はかつて、自身が設計した気球を用いて成層圏の調査に携わり、1931年には高度1万5781メートルの上空に到達しています。第二次世界大戦後は、戦前に勤めていたブリュッセル大学の物理学教授の職務に戻って深海調査用機器の開発に取り組み、彼の最初のバチスカーフ(深海観測用の潜水艇。語源はギリシャ語のバチュス〔bathus:深い〕とスカフェ〔skaphê:船〕)を設計しました。1950年代の初め、ピカール氏は、イタリアとスイスの両国による新潜水艇の建造を指揮し、このプロジェクトを受け入れたイタリアの街に敬意を表して「トリエステ号」と名づけました。そして1953年夏、海軍の支援のもと、イタリアの海岸においてこの潜水艇の進水式が行われました。「トリエステ号」のキャビンにはロンジンが誇る精度の高い計器が装備されており、ピカール教授と息子のジャック・ピカールがこれらの計器を用いてテスト潜航を実施し、1000メートルを超える深海に到達。1953年9月30日、「トリエステ号」はポンザ島沖で水深3050メートルを記録しましたが、これがピカール教授にとって最後の潜航となり、以降は息子にこのバチスカーフの操縦を委ねました。