第一次世界大戦:創造性
また、20世紀の最初の10年間は産業の発展期にあたり、新しいムーブメントの生産や開発が増えた時期でもありました。この時代は第一次世界大戦とその結果によって幕を閉じます。腕時計の普及によって時計の需要が高まる中、アルフレッド・フィスターが率いる技術部門は、腕時計のために特別に設計されたムーブメントの製作に取り組みました。戦時中に開発されたこれらのキャリバーが、ロンジンが腕時計用に製作した初めてのムーブメントでした。これらのキャリバーと、それに関連する楕円形や長方形の時計の形状は、美しいスタイルを求める当時の傾向に応えて開発されたものでした。
しかし第一次世界大戦の開戦によって、19世紀末に始まったロンジンの工場の発展に大きな混乱がもたらされたのです。スイスで総動員令が発せられたため、ロンジンの工場からは社員がいなくなり、さらに時計産業は深刻な停滞に陥りました。ロンジンの経営陣は、時計の出荷を停止し、一時帰休を実施しなければならなくなりました。一方で、戦争による経済的影響を抑えるために生産の多様化が始まりました。ロンジンは、既存の生産設備を調整して、英国向けのプリズムコンパス、そしてアメリカ向けの照準コンパスを製作します。但し、このささやかな生産多様化が必要だったのは短期間のことでした。戦争という妨げにもかかわらず、時計の需要は、世界中の多くの市場で急速に回復していったのです。戦争が始まった時に経営陣が恐れていた失業の不安は戦争末期には解消されましたが、職人が徴兵されたために労働力が不足して生産が低下し、ロンジンの事業は多大な打撃を受けました。
戦争が終わると技術部門は、戦争が終わるまでの2年間中断されていたキャリバーの開発を再開。1916年に一連の腕時計用ムーブメントが開発されてはいましたが、事業の中心をなす時計の心臓部の技術革新は停滞していました。これは、1867年以来絶えずムーブメントの開発を行ってきたロンジンのそれまでの歴史とは対照的な時期といえるでしょう。軍事上のニーズと女性のファッション志向によって腕時計の需要はさらに高まっていたのですが、ロンジンのキャリバー製作は、技術面で一時的に停滞期に入っていたのです。しかし1920年になると、ロンジンは8日間のパワーリザーブを備えたムーブメントを発表し、このムーブメントは置時計、オフィス用時計、旅行用時計、自動車用時計、航空機用時計などの様々な製品に使用されました。1920年代の初めは景気が著しく減退し、事業の浮き沈みに慣れている時計産業も深刻な不況に直面していました。
このように1920年代初めは商業が停滞していたのですが、ロンジンは戦争によって中断されていたムーブメント開発を再開します。こうして、この不景気の時期においても、アラーム機能を備えた特別なキャリバーが製作されたのです。ロンジンはこれと並行して、時計の歩度を検定し、精度を証明する天文台コンクールに参加し、ワシントン天文台のコンクールで優れた成績を獲得しました。このコンクールでは、ロンジンのデッキ・クロノメーターが頻繁に上位にランキングされています。時計メーカーが精度と信頼性を競う天文台コンクールにおいて素晴らしい成績を収めて高い評価を受けることによって、製品の優れた品質を保証することができるのです。ロンジンは1922年にジュネーブ天文台コンクールに参加し、また英国のテディントン天文台コンクールにも何度も参加していましたが、ヌーシャテル天文台コンクールには数年間出品しませんでした。ロンジンの製品は、天文台コンクールで定期的に上位に入賞していました。
しかし精密機構におけるニーズは、天文台コンクールで時計メーカーが繰り広げる商業目的の競争を超えたものでした。クロノメーターは、天文台によって精度が保証される計時装置で、数多くの分野で必要とされる機器です。例えば1923年には、フランス人学者のジャン・ルカルムがモンブランで科学調査を実施しましたが、その際に10個のロンジン製クロノメーターを使用しました。